Twitter(つぶやき)をやってみませんか?

    follow me on Twitter

    「雪の下の炎」 DVD発売中!!

    「雪の下の炎」 DVD発売中!!
    (上の映像をクリックしてください)

    2009年3月15日日曜日

    NYTimes のチベット関連の記事ふたっつ

    先日のチベットを旅していて拘束され送還されたNYタイムスの記者、Edward Wongによる記事です。
    読み応えがあるが、ジャーナリストとしての品格を保とうとしていて、我々チベット支援者にはミクストメッセージにとれるところがなきにしもあらず。しかしながら、中国人でさえ知らないチベット、というのを締めくくりにもってくるのは興味深い。
    そうとう怒っているな、ともとれる。がんばれ、エドワード!


    The Heights Traveled to Subdue Tibet

    チベットを征服するために旅された山々


    New York Times

    Published: March 14, 2009
    Article by: Edward Wong

    MAQU, China

    民兵の将校が我々のパスポートを没収した。真夜中に近い時間で、チェックポイントで彼と数人の同僚たちが雪のつもる山道に止められた我々の車のまわりに立っていた。5日間で、西中国のチベット地域への旅は唐突な終わりを迎えた。

    同僚と私は警察が来るのを待った。我々は地元の警察署に同行され、尋問され、北京に向かう飛行機へ乗せられるのだ。

    「これはあなた方の安全のためです」その民兵将校は言った。

    2週間前のこの拘束はべつに期待はずれのことではなかった。私は中国政府の目からみたら、もっともデリケートな問題のひとつである、チベットについてレポートをしていたのだから。そして、私は、政府がどのような騒動をも弾圧しようと数千の軍を配備しつつあるチベットの青海省、甘粛省を旅していたのだから。

    多くのチベット人たちは中国による支配に憤りを感じている。そして、中国の指導者たちはチベット人たちが、不成功に終わったチベット民族蜂起50周年に備えて、1年前と同じような広範囲に渡る抗議活動を行おうとしていることを恐れている。公安軍の目的のひとつは、外国人を(そのエリアから)退去させ、チベットで何が起きようとも、その事実を世界から隠すことだ。

    これは、勿論、いつもチベットにまつわる問題の一つだ。今月の中国による取り締まりは、この山々の王国を外の世界から閉め出そうとするチベット人と中国人による長い歴史の、最新のエピソードにすぎない。チベットのほとんどのエリアは山々に囲まれた海抜15,000フィートの遠く離れた高原にあり、チベットに関するニュースを取得するのはいつでも困難だった。政府の南京錠が「その門」に加えられた今は、それを特別に難しくしている。

    チベットにベイルをかぶせられることにより、外者は自らの想像や欲望をこの隠された地に投射することを促し、それは時々悲劇的な結果をもたらした。

    それは、19世紀にも起こっている。英国とロシアがこぞって中央アジアに影響をおよぼそうと熾烈な闘いをしているとき、チベット当局は外国人をチベットから閉めだすことを決めた。その閉鎖そのものが探検家、スパイ、布教者、植民統治者や仏教家たちがチベットの首都ラサにこぞって押し掛けることに拍車をかけた。

    英国は1904年の残忍な軍侵略によってラサへの道を固め、他の外国人を閉め出した。その後、中国共産党軍が1951年にチベットを侵略し、この地を閉鎖し、数十年に渡る弾圧を行っている(「地上の地獄」をもたらした、とダライ・ラマは火曜日に言っている)。

    中国はだんだんとチベットを旅行客に開放しだしたが、市民による騒動が起こるたびに、すぐに閉鎖した。

    「チベットが歴史的に人々を魅惑し続ける理由の大部分は、まさに、現代世界から触れられず、侵入者を受け入れないという、その閉鎖状況が生んだものだ」西洋がチベットに息長く弾かれ続けることについて書かれた「バーチャル・チベット」の著者であるOrville SchelはEメールのメッセージでこのように語った。「そこには西洋人に対し、中国がチベットの神秘的な魅力の大部分を取り除きつつあるという成功と、今やそれを余儀なく「閉鎖する」いう義務を感じている事実に皮肉がある」

    19、20世紀にチベットに侵入した西洋人たちの歴史は Peter Hopkirkの著作「Trespassers on the Roof of the World」に綴られている。旅人たちはしばしば吹雪や山道、山賊の襲撃などを耐え抜き、ラサまであと少し、というところで高位のチベット僧たちによる軍隊によって止められた。時々彼らは囚人としてとらえられ拷問を受けた。(私に関しては山道は決して悪くなかった。民間将校たちは武器を私たちにつきつけなかったし、我々が車に座っている間にホットミルクを用意してくれた)

    1879年、ロシア帝国軍のNikolai Prejevalsky大佐は武装したコサック達につきそわれ、チベットの首都を目指したが、ラサまで150マイルのところでチベット人当局たちによって止められた。彼は引き返した。

    18年後、英国人の探検家A. Henry Savage Landorはラサへの道で拘束され、地方長官のところに連れていかれ、台のうえに24時間つながれるなどの拷問をうけた。釈放後、彼は英国に戻り、自らの監禁についてのベストセラーの本を書いた。

    一方、ラサまでたどり着くことができた人々の大半は、変装していたという。大英帝国によって雇われた何人かのインド人スパイたちは聖人を装った。日本の仏教徒、河口慧海は中国人の医者を装った。フランス人の女性で、チベットの言語と文化に長けていたAlexandra David-Néelは1923年に巡礼者を装い、ラサに足を踏み入れた西洋初の女性だ。

    それまでには、チベットのニュースは世界中に漏れだしつつあった。それは、Francis Younghusband卿によって導かれた英国軍探検隊により始まった。マキシム銃とエンフィールドライフルを使い、兵隊たちはインドからのマーチで、数千人のチベット人を殺した。チベット人たちは、チベット内に英国が貿易代理人を駐在させることができる、という条項が含まれた、英国との条約を強制的に結ばされた。英国はそして、外国人をチベットから閉め出すための精一杯のことをした。

    英国がチベットを侵略したとき、ロシアがすでにそこに足場をもっていると考えてたが、ロシア人たちの影響を見つけることはできなかった。それは、それまでダライ・ラマ13世がチベットを閉鎖することに成功していたからだ。その成功そのものが、英国が彼らの想像の空白を埋めることを促した。彼らロシア皇帝主義の陰謀を妄想し、それに基づき、ひどい暴力を用いてチベットをほじくり開け、妄想を遂行した。

    数十年後、チベットの自治が1951年に終わると、恐ろしいキャンペーンを取り入れて、数えきれない僧院を破壊し、僧や尼僧を起訴し、中国はチベットを近代化し、外国人旅行者たちに開放した。私は中国のチベット地域を1999年に旅行し、2001年には僧院から僧院へとハイキングしながら、ラサと中央チベットで5週間を過ごした。

    しかしいま、私は中国でジャーナリストとして仕事をし、チベットに入るのはもっと困難な身にある。全ての外国人ジャーナリストたちは法的に中央チベットに入るためには、滅多にはもらえないことになっている許可書が必要である。

    中国人はチベットに旅行はできるが、かの地は遠い。中国人がチベットを知りうるのは、オーウェル調の中国政府のプロパガンダからのみである。公式な説明によると、例えば、ダライ・ラマは「仏教僧の袈裟を装った狼」と言い切る。

    青海省のチベット地区で働く私の中国人の友人は、彼が、赤い袈裟を着た僧たちとの写真を友達に見せると、ショックの目で見られるという。「怖がっているんだ」彼は言った。「彼らは『何やっているんだ、この人たちは誰なんだ?』と言う。どうやって反応していいかわからないんだよ」

    このような混乱は、先週NYタイムスのウェブサイトで行われたチベットに関する討論に参加した中国人の意見にもエコーしている。

    「真の中国人である私に出さえ、チベットは遠く、神秘的な場所だ」、読者はこのように書いている。上海のCao Weiからだ。「私にはこれらのことがいったい何なのか、さっぱり分からないです。」


    チベットの残忍行為が中国公式の歴史展覧会に記される
    Tibet Atrocities Dot Official China History

    New York Times

    Published: March 12, 2009
    Article by: Andrew Jacobs

    北京

    チベットから去ったものは、足かせをはめられた奴隷たちや、主を拒んだ農奴たちに待っていた親指をねじで締める拷問具やサソリ穴だという。でも、去ったものの中には、「仏教僧の袈裟を装った狼」で今週で50周年を迎えるチベット民族蜂起の際にインドに亡命したダライ・ラマもいる。一方中国は、それはダライ・ラマが封建的な支配を続けるためだ、と言っているが。

    外国人ジャーナリストに閉ざされたチベットでは、最近唐突に、そしてミステリアスに、電話やインターネットが不規則に機能するようになり、今日、近代チベットをかいま見るには、「民族の文化パレス」を訪れ、社会主義の「砂糖菓子」的な味付けを施された最近の展示、「チベットの民主化改革50周年」を見る道しか残されていない。この展覧会は、日ごとにバスで乗りつける兵隊、学童、そして政府当局からべた褒めされている。

    身の毛もよだつ拷問器具や、粒子のあらいフィルムには、損傷をおった顔や、「解放」されて喜ぶチベット人たちのショットがうつされたものが展示される。この展覧会は、こちらの世界では「慎重にあつかうべき時代」として扱われているものが、共産党バージョンのゆるぐことのないチベットの歴史を色濃く顕示し、宣伝報道者(プロパガンディスト)の大傑作にしている。

    土曜日は、チベットの「独裁的で神政主義統治からの解放」の50年をマークするだけではなく、19人を殺したラサでの暴動とそれに続いた政府による高圧的なリアクションからの1周年で、その軍備は最近でも、チベット人たちが多く居住するエリアで強化されるようになった。

    去年の3月の騒動は、数十年に渡るチベットへの寛大な投資により、長く続いていたチベット人の北京への憤りは当然和らげられた、と考えていた当局には驚きの出来事だった。

    先月から始まったこの展覧会は、外国人研究者たちの論点である、チベットのわずかな独立期間の存在をもみ消そうとするもので、中国支配によって、いかに肯定的な変化がチベットに訪れたかを、息も出来ないくらいの詳細をもって展示している。「民主化改革により、農奴や奴隷たちは幸せな生活をすることができ、その結果に彼らは大きな熱意を見せた」と、展示のはじめから終わりまでビジターたちを案内するシルクのチベット民族衣装を着た、陽気な漢民族出身者の一人はアナウンスした。

    展示はまた、ダライ・ラマは分離主義の心情をひろめ、大衆受けをねらっている、という政府の長年の言い分を強調しようとしている。「ダライ一派の復興ファンタジー」と題されたひとつのパネルは、ダライ・ラマが諸外国の力や西側ジャーナリストたちを後ろ盾にして、再び力を得て、中国を分離させようとしている、という主張でその証拠を紹介している。

    展覧会の感情的なピークに、大喜びしながら封建主義的文書をたき火につっこんでいるチベット人たちを写した、原寸大ジオロマを持ってきたこの広大な展示の文章には「歴史は正義を下すだろう」と書かれている。「この50年の発展で、チベットは暗闇から光に、貧困から裕福に、専制君主から民主主義に、隔離から解放に移行した」。

    西側の学者たちは中国政府の解釈する歴史に抵抗し、チベット人亡命者グループは共産党を制圧的な占領者としてとらえるが、そのような反対心情は、公表基準にのっとって作られた公式の教科書やテレビや新聞の情報を、長い間吸収してきた一般の中国人には通じにくい。

    電気関係のセールスマンで天津からやってきたDai Zhirongは火曜日に展覧会を後にしながら、彼が展覧会で見たものはダライ・ラマへの軽蔑やチベット人に対する失望をただ再確認しただけだ、と言った。「なぜ彼らが我々の食べ物を食べながら、我々を嫌うのかが分からない」 テレビでこの展示会のプロモーションを見て、やって来た57歳のDai氏は言った。「真実を説かれ、分離主義者たちがなにをしようとしているのかを見ると、私も彼らを嫌いになるだけだ」。


    0 件のコメント: