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    「雪の下の炎」 DVD発売中!!

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    2009年7月1日水曜日

    村上春樹さんの新刊

    数日間、1Q84を夜中に幸せに読みすすみ、朝3時半までかけて読了。

    あらためて、村上春樹さんという作家はものすごいストーリーテラーだと思う。これだけ複雑な物語を頭のなかに描き、それを他者に伝えていくなんて、とてつもないことだ。
    とにかく、今回はキャラクターも良かった。青豆、天吾、ふかえり、そしてリーダーでさえも。女性をここまで描けるなんて!

    私はこの世の中をもっと知るために、あるいは人類を「体験」し、より「理解」しようとするために、映画を見たり、本を読む。でも、村上さんの書く本を読んでいると、純粋なストーリーだけでなく、その後ろにある彼の息づかい、その文章を紡いだときの彼の表情みたいなものまでをすごく感じる、想像する。 これは、読書を邪魔するようなものではなくて、逆に2倍に面白くしているものだ。
    たぶん、ストーリーを純粋に楽しむのが映画や本の極意だと言うひともいると思うけれど、私がひかれるのはストーリーはもちろんだけれど、その後ろにいる「作家」の息づかいを、より感じさてくれるようなものだと。だからデビッド・リンチも実は大好きなわけで。
    (その作家性が嫌味になってしまう人もいるけれど、村上さんやリンチはだいじょうぶ)

    青かった大学時代にいつも、なぜ人は生きるのか、などと考えていたとき、「羊をめぐる冒険」を読んで、そういうあやふやな疑問を持っている私のような人間を包括 し、創造力の羽を与えつつ、ちょっとした居場所を作ってくれるなと思い、村上さんの作品が好きになった。だからずっと読み続けている。19才のときロンドンに半年いたのだが、あまり良い思い出はないのだけれど、村上さんの小説を繰り返し読むことくらいが楽しみだった時もあった。
    それ以来、人生を歩む中で、私はNYに住み、ドキュメンタリーを撮っていたり、ボリウッドが好きになったりして、色々な好みやなんかもかわってきたけれど、昔のexistential crisisを持っていたような自分は今でも自分の中にあって、彼の小説を読むとその感覚がすごくよみがえってくる。でも、前ほどそのなかで迷子になった りしない自分もいる。

    「ねじまき鳥クロニクル」あたりから、村上さんの小説が少しかわってきた、というのは私も感じているけれど、彼が人間として、あるいは作家として、(私が言うのも とてもおこがましいが)ものすごい職人技術を身につけ、なんか「ものかき」の極限みたいなものに挑戦していっているような気がしてならない。
    その職人技術たるや、もちろん一般受けのストーリーを書いてベストセラーを続出させる(現にベストセラーだけれど)、とかそういうものではなくて、「今までつきつめてきたものを、どこまでまとめて、安定して、コントロールしながら文章で表現できるか」という、ある意味数学の謎解きのような技術のような気がする。言っている意味がわかるといいのだけれど。
    とにかく、「自分をコントロール」というキーワードに集約される。村上さんの、ストイックそうな早起きして書いて、ジョギングする、という生活も反映しているのかもしれない。

    ただ、彼がいま作家として目指そう(もし彼がなにかを目指しているとすれば)としているところは、一般の読者である私からとても離れているところなのかなー、という感じもする。それはそれで全然かまわないのだけれど。今回の1Q84の大ざっぱな部分での読後感は「ねじまき鳥クロニクル」や「海辺のカフカ」に受けたときとちょっと似たような印象だ。好みからいえば、私は「ねじまき鳥クロニクル」のほうが「1Q84」よりも好きだし、「海辺のカフカ」よりも「1Q84」のほうが好きだ。
    そのなにか、すごく上の(あるいは遠い)地点を目指し、同時代に生きる作家である村上春樹さんから目が離せないし、いつまでも新刊を楽しみに読み続けたい、と私は思っている。どんどん彼が先に行っているのを、後ろからとても興味深く、敬いをもって、「そうくるのかー」と眺めている感じ。

    2009年6月25日木曜日

    気合い

    映画「劔岳」の公式ウェブサイトを見た。

    木村大作監督は大ベテランの撮影監督。特典映像を見ていると、全国を自らが運転してフィルムを持って行脚している。たぶん、これは各地での一日限りのスペシャルスクリーニングで一般の劇場公開とは別にやっているのだと思うけれど、その姿を見ていて、インスピレーションをもらった。

    いくつになっても「伝えたい」という思いに突き動かされ、行く先々、お腹から声をふりしぼり、手振り身振りもあわせて、観客に語りかける監督。
    2年間かけて、標高数千メートルの山々で命がけの撮影をしている。メイキングを見ていると、その様子が伝わる。
    頂上まで上っても、天候悪くて数時間待機した末に下山ということもあったんだそう。

    語り続けること、その難しさ。初志を心に刻んで進む。

    2009年6月16日火曜日

    インディアン・アイドル♡

    インディアン・アイドルを知っていますか? アメリカン・アイドルなら知っている人は多いと思うけれども、インディアン・アイドルはそれのインド版なのです。いわゆる歌のオーディション番組。超ローカルな話題で恐縮なんだけれど、2007年のインディアン・アイドルシーズン3、私はチベット人の友人のおかげでぜーんぶ見ていたのです。ほら、ジャクソンハイツでDVDがすぐに入手できるからね。
    最初は、ちっ、うるさいなー、と思っていたのだけれど、これがまたよくできている。リアリティー・ショーとオーディション番組が一緒になっているから、ドラマ性はあるは、ツッコミ性満載だわ(インドです、ボリウッドの国です)で、気づいたら番組を網羅していました。

    2007年のシーズン3は、中国系のコンテスタントがいたり、ダージリン出身のネパール系の男の子がいたり、インドのマイノリティーががんばっていた。最後のふたりに残ったのは、ダージリン出身のネパール系のプラシャント・タマーン君とシロン出身のアミット・ポール君。ふたりともけっこうなイケメンで、審査員のアメリカ版だとサイモンのような、(知る人ぞ知る)鬼のようなダメ出しをするボリウッド界のかつての売れっ子ミュージック・プロデューサー、アヌ・マリックの罵詈雑言にも絶え、本当によくプレッシャーにめげずにがんばっていて、それだけですごかった。毎週、携帯のテクストメッセージで視聴者がVoteできるのだけれど、プラシャント君はネパール系の少数民族の応援がハンパなくすごくて、彼1人分の票が最後の方に残っていた5、6人のすべてのコンテスタントの票を全部集めたよりも多かったくらいだったそう。だから、結局最後にプラシャント君が勝ったわけです。

    で、前置きがすごーく長くなりましたが、そのプラシャント君がお友達を訪ねてNYに来ていて、何度か会う機会がありました!私の友人の家に行ったら、プラシャント君がそこにフツーに座っていて、思わず私はミーハーぶりを炸裂させた、いや炸裂させざるを得なかったのです。だって、彼がアイドルになるプロセスを見守っていたのだから!!! 
    プラシャント君はアイドルになる前はコルカタの警察官をして、警察のバンドで歌っていたそう。お父さんが亡くなったために彼が家族のために学校をやめて、お父さんの後をついで、警察官になったんだそうです。とにかく、おごりがまったくなく、気配り上手な超好青年で、私はさらなるファンになってしまいました。それに、彼は仏教を信仰するゴルカ族なのです。

    彼はNYでチベット人の私の友人のアーティストの家に泊まっていたのだけれど、チベット人の彼に対する歓待ぶりもすばらしい。彼をインド人が沢山いるジャクソンハイツなんぞに連れて行ったら、タイヘンなことになるから、なるべく駅を避けて、チベット人のタクシーやリムジンの運転手が借り出され、色々な場所に連れて行く。沢山のチベット人が知ると、もてなし好きなチベット人の「うちに来い!」攻撃にあうから、それをやんわりと断る、など。そして夜になると数人のチベット人たちが遊びにきて、ヒンディー音楽大合唱パーティー、それも夜中まで。プラシャント君よりも、よっぽど沢山のヒンディー音楽を知っているチベット人たちの音楽に対する情熱はすごいです。しかも、チベット人ってみんな歌がめちゃくちゃ上手いから、プラシャント君と合唱しても肝心のプラシャント君の声が聞こえないくらい!

    そんなこんなで、ワイワイと楽しい時間があったわけですが、昨日は彼をスカイダイビングに連れて行くために、ロングアイランドへ行った。7時半に集合という訳で、ものすごい早起きをしたものの外は雨。とりあえず集合場所に行くけれど、プラシャント君は前日朝4時までの飲み会プラス合唱会のおかげで、まだ寝ている。ホストのチベット人の友人も真っ赤な目をしながら、スカイダイビングの事務所に電話をし、気象状況の確認をとっている。結局、時間が遅れて午後イチで来てみなさい、ということになり、まったりと雑談しながら(チベット人らしく)朝食をとった後、2台の車で、やはりヒンディー音楽大音量大合唱のドライブ。1ダイビング350ドルというとんでもなく高いお金がかかるので、私たちは応援をするのみ。まあ、飛行機代もあるから。プラシャント君は警察でのトレーニングもあったのか、度胸が据わっていて、インストラクターから説明を受け、意気揚々と飛行機に乗り込み、私たちはそれを固唾を飲んで見守ったのです。勿論、1人でやるわけではなく、インストラクターに繋がって降りてくるから安心な訳だけれど、にこにこしながらパラシュートにぶら下がっておりてくるプラシャント君を見たときは安心した。「ここでインディアン・アイドル様に事故があったら誰の責任になるんだ?」という疑問をいっさい抱かないチベットコミュニティーに乾杯したくなった。

    しかし、7人くらいでのミニ・トリップで、友達プラスインディアン・アイドル様というメンツだったとはいえ、こんなに楽しく笑った1日はほんとーに久しぶりだった。どの写真を見ても、私はだらしのない、でも良い意味で邪気のない笑顔とポーズまでとっていたりして、まったくもってチベット人たちは、どんな人をも(私のような人間でさえ)笑顔にして、場をゆるーく、たのしーくしてしまう技術に長けていることを再確認した。これってスゴいことだと思う。

    一日の終わり、家にかえってきて、皆スゴーク疲れていたけれども、ホストの友達はレストランに行って皆の食事を買ってきてくれて、その間私たちとアイドル様はだらだらとヒンディー映画を観て、今彼が住むムンバイの話やボリウッドの噂ばなしなどをしていた。(いい忘れましたが、私は大のつくボリウッドファンです)ホストの友人が食事を買ってきてくれて戻ってくると、皆お腹がすいていて、もくもくと食べ始めた訳だけれども、なぜかプラシャント君が食べていない。どうしたの?と聞くと、「僕はソナムを待っている。ソナムが来たら一緒に食べる」と言う。チベット人のソナムは、ロングアイランドから帰ってきて、一度用事があるから2、3時間外に行ったのだったけれど、それを待ちたい、と彼は言うのだ。お腹がすいていたはずなのに。なんて良いやつなんだ!

    プラシャント君はしきりに、旅をすると、普段は自分はホテルの部屋に入れられて、皆忙しいからまったく相手にしてくれないし、必要なときだけ声をかけてくるから、こんなに友達のように、というか友達になって良くしてくれるなんて家族みたいだ!!と感激していた。チベット人の思いと、プラシャント君の思い。なんか、素晴らしいドキュメンタリーを見ているような気分だった。
    そんな中、ふと、どうしてこんなに楽しいのか、と正気に戻る瞬間がきて、人間がもちえる、精一杯のあたたかさがじんわりと身にしみたとき、自分は今日は童心にもどっていたのだなー、と思い、皆の顔をみていると感謝の思いがこみあげて、泣けてくるくらいの勢いだった。人がいちばんのインスピレーションだなあ、と思う。

    プラシャント君がインディアン・アイドルで勝った回



    プラシャント君の歌
    「人生では思ってもみなかったことに出会う」というようなことを歌っている彼のシングルです。今もハナウタで歌っているくらい、お気に入りになっちゃった。

    2009年6月2日火曜日

    Herb and Dorothy

    この前の負債に関するブログに沢山の方が反応して、応援メッセージをくださいました!ありがとうございます。励みになります。

    昨日、制作途中の段階でトライベッカ映画祭のプログラムAll Accessに入ったときに、一緒になって以来の「戦友」Megumi Sasakiさんのドキュメンタリー、Herb and DorothyのNYプレミア試写会に行った。彼女とは制作段階のころから、ほんっとーに色々助け合い、傷をなめあい、鼓舞しあった、本当に大切な友人。その大切な友達の大切な日だった。

    彼女の映画はNY在住の伝統的アートコレクター、Dorothy and Herb Vogel夫妻の話。アートコレクターといっても、お金持ちの二人ではない。Herbは郵便局員、Dorothyは図書館員でDorothyのお金で生活しながら、Herbの給料でこつこつと芽が出るか出ないかのアーティストの作品を買ってきていたら、とんでもないコレクションになっていた、という話。とんでもない、というのは、スケールも、そしてバリューも。クリストやロバート・マンゴールド、リチャード・タトルなど、今やそうそうたるアーティストが名を知られていないときから、彼らのアートを集めていたのです。

    プレミアにはHerbとDorothy以外にもドキュメンタリーにも出ているそうそうたるアーティストの方々が集まっていて、映画館前を通る人々は、スターがいるのでは? と足をとめていたほど。Herbの座っている車椅子を押して、メディアへのポーズをとっているMegumiさんと出演者たち。私もiphoneで写真を撮ったのだけれど(ぐふふ)、彼女のこぼれるような笑顔の向こう側にはとてつもない努力と忍耐があるのを知っている。この数ヶ月、NYプレミアのために、寝る間もおしんで、一生懸命広報活動指示からウェブサイト制作、ひとつひとつをじっくりやってきた彼女。その彼女が登場人物のDorothyと一緒にHerbの車椅子を押しながらQ&Aで会場に入ってきたのを見て、ほんとうに胸がきゅんとした。

    HerbとDorothyのユニークで筋の通った、とても地道な生き方は、Megumiさんがかれらの映画を作ったプロセスの地道さと重なる。

    映画の世界は配給されたり、メディアの前に出たり、とてもきらびやかな世界のように見えるが、それは映画制作、配給準備、とかの目立たない作業に比べれば、1パーセントの時間にも満たない。ハイテンションで色々な人々と話をしたり、カクテルを飲んだり、祝辞を頂いたりするが、一夜終わると、またやらなきゃいけない書類が山積みの自分の部屋で目覚める。目覚めたりする。

    映画はオーディエンスに見てもらってからこその映画だし、そのための努力なんだけれども、全てのプロセスがそれこそドキュメンタリーになるくらい、ローラーコースターにのっているようなドラマの連続。人に呼びかけ、人に支えられ、人に誤解され、人に説得し…うーん、まさに修行の道といったかんじ。

    その道の途中にて。焦らずにこつこつとやっていこう。

    2009年5月4日月曜日

    ここ数日

    アムステルダムからオランダ人の友人が来て、週末はうちに泊まって行った。
    彼はダラムサラに17年も住んでいた強者。チベット語も堪能で、柔軟な精神をもち、ダラムサラのゴミ処理システム革新をし、チベットから来たチベット人たちの記録をつけたり、マメな作業をずっとして来た心優しい人。
    おみやげ何がいい?と聞かれたから、大好きなキャラメル入りのワッフル、karamelstroopwafels met roomboterestoop というお菓子を買って来てもらう。このお菓子にはチベットがらみの思い出が。
    チベットに一緒に行ったクルーが、これをチベットに持って来た。
    毎日、ふるわない食事で喘いでいたときに、これを開けて食べてみたら、あまりの美味しさにみんなで悲鳴!
    持って来た本人もおみやげでもらったものだったから、味を知らなかったそう。知ってたら、みんなで分けてなかっただろうに。

    彼がDCのコンファレンスに発つ前に、元チベットの囚人の尼僧ガワン・サンドルさんとそのお兄さん、そして友人たちとご飯を食べに、ジャクソン・ハイツへ。ガワンさんのお兄さんとは、彼らがダラムサラにいて、ガワンさんがまだ囚人だった頃からの知り合いだそう。ふたりで、ガワンさんの身を思い、泣きに泣いた夜もあったんだそうだ。
    ガワンさんが釈放されて、はじめてお兄さんと電話で話をしたとき、彼女はお兄さんがなにを言っているのかわからなかったそう。
    お兄さんは亡命チベット人たち特有のチベット語を、早口でしゃべるから、ずっとラサの牢獄にいたガワンさんは困惑したのだ。今は、もちろん、それにも慣れた、と言っていた。
    ガワンさんは凛としていて、寡黙な女性だけれど、言うことはびっしりと言う、素晴らしい女性。お兄さんは、とてつもないエネルギーを持ち、弾丸トークをぶちまけ、人を笑わせるのが大好きな人。
    ふたりは、今一緒に住んでいて、とても幸せそうだ。



    ダライ・ラマ法王がNYにいらしていて、連日イベントが。
    私は10月のティーチングに行こうと思っていたのだが、たまたま友人がチケットをくれた。これは、ラッキーと、ダライ・ラマ法王と元国連難民高等弁務官のメリー・ロビンソンさんの対談を聞きに行った。
    法王は疲れていらっしゃったみたいだけれども、沢山笑顔をふりまいていらっしゃった。

    法王がホールに現れるとき、いつも泣きそうになる。ダラムサラでインタビューをしたときには泣かなかったのに、沢山人がいるところでは、たぶん、観客の発する荘厳なエネルギーに圧倒され、涙が出そうになるのだと思う。
    外は雨模様で、肌寒かったが、ホール内は冷房が効いている。法王は「前にアメリカに来て真夏に冷房が効いたホテルで講演をして、薄いショールをしてきて後悔したことがあったから、今日は厚めのショールをしてきた」と笑いながらおっしゃって、むき出しの右腕をカバーされた。

    メリー・ロビンソンさんは90から97年にアイルランドの大統領をし、そのあと国連難民高等弁務官になった女性。ずっと中国に行きたくて、話し合いをしていたが、チベットに行きたいという彼女の要請に中国当局はなかなか、首を縦にふらなかったそう。ようやく1998年に了承され、中国に行けるようになり、チベットにも行った。そのときにチベット語に翻訳された世界人権宣言を持って行き、学校の先生たちに配った。学校の先生たちは人権宣言を知らなかったという。
    彼女は同行したスタッフに「こういう冊子を渡すのは(中国では)違法かもしれないですよ」と言われたけれども、無視して渡しつづけたそう。それを聞いた法王が、ハハハと笑い出し、「あなたも高い立場にいながら、分離主義者なのですね」とおっしゃって会場は笑いの渦に包まれた。
    外交をするうえで、高官たち本音と建前をはいつも使い分けているけれど、法王は彼女の正直な精神をとても評価していらした。

    また、環境問題で、先進国が出す汚染に、たいして責任のない後進国がより深刻な影響を受けているが、これをどう改善できるか、という質問をメリーさんが法王にすると、法王はすぐさま「分りません。あなたのほうがご存知なのではないでしょうか?」とおっしゃってまたもや大爆笑。

    貧富の差が広がる世界だが、ひとりひとりが助け合いの精神を持ち、なんらかのかたちで手を差し伸べることが大切、と法王はおっしゃっていた。また、アメリカ人たちは、どうかチベットを積極的に訪ね、その様子をメディアに語ってほしい、と最後におっしゃっていた。「お金がないなら、友達からお金を借りてまずはチベットに行き、そして帰ったらそれを記事にして売ったらどうだろう、ハハハ」と。

    法王のお話を聞いていると、その正直で率直な受け答えがいつも心に響く。素晴らしい時間だった。

    帰りにラサから留学しているチベット人の知り合いにロビーで会った。彼が本当に嬉しそうに「サイコーの一日だ!これからまた、チベット人たちと法王の会合があるんだ!」と言っているのを聞いて、胸がじんとした。

    法王はほんっとーに、いつも沢山ご旅行をされているが、体に差し支えないよう、法王の御健康と長寿を心からお祈りしている。

    2009年5月1日金曜日

    「保守だから人権派!」太田誠一氏インタビュー

    恥ずかしながら、私は正直、人権擁護法案というものが日本で話し合われていたのも知らなかった!
    福島香織さんによる、人権擁護法案を国会に提出しようとした太田誠一衆院議員のインタビュー、読み応えあり!
    (それに彼は去年日本人の政治家として唯一ダライ・ラマ法王に面会した人です)

    特に、この箇所、膝を叩いてしまった。

    以下、【福島香織のあれも聞きたい】「保守だから人権派!」太田誠一氏インタビュー(3)から抜粋

    ーー

    太田誠一氏「私は典型的な保守主義というか、一貫して、アングロサクソン的な意味のコンサバティスト。最初に胡錦濤氏と会ったときは、安倍晋三さんと塩崎恭久さんたちと一緒にいったんだけど。誰がみたってコンサバティブな集団ですよ。彼らは私がそういう考えであることを知っている。どうしてそういう誤解をしたのかというと、たぶん人権問題等調査会長をやっていることと関係がある。リベラル、コンサバティブに対するリベラル派だと思われているんでしょう」

    福島記者「−−その通りです。日本では人権問題を声高にいう人はリベラル派で、なぜか親中国派であるというイメージが先行しています。」

    ーー

    この「コンサバ」「リベラル」という、ある意味狭義のものの見方、あるいは「右翼」「左翼」というようなレッテルが、ヘルシーな議論や、自分でものを考える、ということから思考力を妨げていると思う。それはネット空間での議論が罵詈雑言などにつながる原因も産み出していると私は思っていた。

    このインタビューを読んで、太田さんという人間に興味をもちました。まだまだ、激論を生み出している人権擁護法案ですが、行く末をみていきたい。

    2009年4月30日木曜日

    日本人は差別をするか?

    チベット人の友人がこんな話をしてくれた。

    チベット人のTは日本人と結婚し、日本に6年間住んでいたが、最近アメリカに引っ越した。
    日本の永住ビザも持ち、仕事をして給料もそこそこに良かった。生活に不自由もなかったという。
    でも、問題があったそう。それは、彼には日本人が少し差別をするように見えたという。
    また「クレイジーなニュースも多い、社会が封鎖的であるように見えたし、人の視線に耐えられなかった、だから日本を出た」と彼は言ったそうだ。NYを歩いていて、彼は「なんて自由なんだ」と思ったそう。

    いわゆる明確な「差別」を日本人がするかと言ったら、違うかもしれない。だけど、在日韓国人が歩んできた歴史のことを思うと、差別は確かにある。日本に住んでいる外国人から、いかに日本に住むのが困難か、という話をよく耳にするのは本当だ。(逆のケースも沢山あるけれど) もちろん、出会う人たちにもよるのだと思うけれど、労働ビザや永住権のとりにくさにもあるし、たぶん島国根性というものが、潜在的にあるのかなあ、と思った。

    在日韓国人の問題も、ビザの問題も、日本社会の奥深くに隠れていて、表面上にでてくることはあまりない。ただ、最近のフィリピン人夫妻の強制送還の一件はある意味で、一部の日本人の在日外国人への意識を表層化した出来事だったのではないか。まず、この記事をネットで調べていると、コメント欄にある弁護士に向けた罵詈雑言がある。弁護士に対して異論を唱えることは自由だし、それは多いに尊厳をもって行われるべきだと思うが、ネットでの低次元な罵倒は醜い。

    このフィリピン人たちは違法に滞在していたわけだが、きっとそれをも知る沢山の良心的な日本人たちに支えられて生きてきたのだろう。これに関しては沢山の意見があるのだと思うが、私は彼らに特赦を与えて、なんらかの形で一度追放はあっても、また帰れるように、きちんと彼らの勤務先からの申請をとって、就労ビザを与えるなど、家族で日本にいれるようにしてあげるべきだと思った。

    アメリカでは1986年に違法滞在者への特赦(アムネスティ)が出て、280万人が永住権を得ることができた。今も、テッド・ケネディ上院議員がサポートする、1,200から2,000万人の違法滞在者を合法化する改革法案が提案されている。ま、この不景気のなか、近い将来、この法案が優先されることはないと思うけれど。

    先出のチベット人Tさんの話から、色々な日本社会の問題点を友人たちに語ることになったのと、「在日外国人が見た日本」という視線が、私が最近日本に帰ったときに体験したことと一部つながる部分があったので、ここに書いてみました。

    2009年3月15日日曜日

    泥の中の蓮になる

    日本の日蓮宗のお坊さんと電話でお話しした。

    南無妙法蓮華経、についてとか。
    その中で、泥の中に蓮(ダルマ=ブッダの教え)を咲かせる、
    と彼が言ったことが頭に残った。

    世界は残酷だし、厳しいけれど、そこに立って生きている私たちひとりひとりが
    その状況を手にくみとり、行動を定めたり選択し、発動することができるということ。
    それができるようになるまで、時間がかかるし(年をとる)
    できるようになると、苦しみから離れていくということ。
    でも、逃げることではなく。

    中道の深み。

    中道にはいくつかのレイヤーがあり、
    その深みには慈悲が深まるとすんなりと、いけること。
    でも、それが難しかったりする。

    いま、私の中で、そういう変化が道のりの中でなんとなく見える時期にある。

    その変化を確認できたら、見えないが支えてくれるエネルギーに
    感謝をしなさい、と彼は言った。
    そうすることで、もっと支えられる、ということ。

    祈るかたちである合掌は印と同じで、
    それをすることで、肉体のエネルギーの動きがかわり、
    魂と直結するというか、「祈りやすく」なるらしい。

    こういう時期に、色々な縁でつながり、見えない相手と深い会話をするのは
    これも縁なのだろう。

    ほんとうの感謝はかたちで表せないが、
    心に広がるあたたかいエネルギーこそが、とも思う。

    そういう渦のなかにいることが、生きることだ。